Se connecter玉座の間は、思っていたより静かだった。
もっと人がいて、ざわめきがあって、豪華絢爛な音楽が流れているのかと思っていた。だが現実は違った。高い天井に反響するのは、歩く音と衣擦れの気配だけ。
赤い絨毯が、まっすぐ玉座へと伸びている。
左右には、重厚な柱が等間隔に並び、その間に王家と歴代の英雄たちのタペストリーが掛けられている。光は高窓から差し込み、床の大理石をほのかに照らしていた。
そして、その最奥。
ひとつだけ高く据えられた椅子。
国王の椅子。 そこに座る人物を、エリナは見た。ヴァルデリア国王——ラオネル・ヴァルデリア三世。
四十代半ばほどだろうか。鋭さよりも、どこか疲れを帯びた穏やかな目をしている。だが、穏やかさが弱さでないことは、向き合った瞬間にわかった。
人をよく見ている目だ。
玉座の右側には、王宮魔法師団の長と思しき老人が立ち、左側には数人の高官たちが控えている。その中に、見慣れた紋章をつけた男の姿があった。
クロヴェル侯爵。
エリナは、その視線を一瞬だけ感じた。冷たい、というより無色の目。対象を評価し、分類し、その上で切り捨てる目。
見ている。
でも、今はそちらを見返さない。
エリナは絨毯の上を歩いた。両脇をフィオナとレインが固め、少し後ろにゴードンが続く。途中でアルバが横に退き、一行を見守る位置に移動した。
決められた位置まで進み、エリナは跪いた。
「アッシュフォード商会、実務責任者——エリナ・アッシュフォードにございます。陛下のお召しにより、参上いたしました」
声は震えなかった。
震えさせないように、喉と舌の動きを意識した。 沈黙が、一拍。 そして、国王の声が降ってきた。「顔を上げなさい、エリナ・アッシュフォード」
落ち着いた、低い声だった。
エリナはゆっくりと顔を上げた。 国王ラオネルの目が、真っ直ぐこちらを見ていた。 その目に、敵意はなかった。好奇と、慎重さと、わずかな期待。「遠路、よく来てくれた」
ラオネルが言った。
「王都までは長い道のりであったろう」
「はい。しかし、道中は安全でございました」形式的な挨拶が交わされる。
その間、エリナは視線を下げすぎないように注意しながら、玉座の周囲を観察した。 国王の隣には、白髪の老人——王宮魔法師団長。その後ろに、レインが『実務派』と呼んでいた派閥の象徴と思しき魔法師たち。 左側には、財務省と魔法省の高官が並ぶ。その中に、クロヴェル侯爵がいる。完璧な姿勢と、完璧な表情。 そして、背後の柱の陰には、何人かの侍従と書記官。細かな反応を記録する役割だろう。 一つの会議体として見ると、この場は奇妙な構造をしている。 国王は頂点に座っているが、両側に強い利害を持つ勢力が控えている。その間に、自分は今、立っている。「そなたのことは、いくつか報告を受けておる。ルシェムでの石鹸と薬草薬の普及、ベルナでの商売、王立魔法学院での消毒液の効果。魔法を持たぬ身でありながら、よくここまでやってきた」
「過分なお言葉、身に余ります」 「過分とは思わぬがな」ラオネルが口元をわずかに緩めた。
「年は、七つであったか」
「はい」 「そなたの父——アッシュフォード侯爵とは、何度も語り合ったことがある」国王の視線が、少しだけ柔らかくなった。
「あの男は、面白い話をする男であった。『魔法に頼りきらぬ国を』と、何度も言っておった」
エリナの胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
やはり、ここでその話が出る。「……父は、失脚いたしました」
「知っておる」ラオネルの声に、わずかな苦味が混じった。
「私の力が足りなかったからな」
玉座の間の空気が、わずかに張り詰めた。
クロヴェルの気配が、遠くで静かに揺れたのを、エリナは感じた。「さて」
ラオネルが姿勢を正した。
「エリナ・アッシュフォード」
呼ばれ、エリナも背筋を伸ばす。
「そなたに問う。——なぜ、アッシュフォードの名を捨てなかった?」
来た。
フィオナが「絶対に聞かれる」と言っていた質問だ。 エリナは、短く息を吸った。「二つ、理由がございます」
「聞こう」 「一つ目は、父の名誉を取り戻すため」エリナははっきりと言った。
「アッシュフォードの名は、今や『裏切り者』『横領者』といった汚名と共に語られております。その汚名を、事実に基づいて正すためには、その名を掲げ続ける必要があると考えました」
玉座の間に、さざ波のようなざわめきが走った。
「汚名」という言葉を、七歳の少女が国王の前で使ったのだ。驚くのも無理はない。
だがラオネルは、何も言わなかった。黙って続きを待っている。「二つ目は、父が描いた『魔法に頼りきらぬ国』という構想を、別の形で証明するためです」
ラオネルの目が、細くなった。
「別の形?」
「父は、国家の制度や軍制、税制の見直しという形で提案をされました。しかし、その案は退けられました。その理由の一つは、『実例がない』ことだったと聞いております」フィオナが、隣でわずかに息を飲む気配を見せた。
そう。ここで『実例』を出す。「ですので私は、まず小さな単位で『実例』を作ることにいたしました」
エリナは続ける。
「一つの町、一つの商会、一つの市場。その中で、『魔法を使わずとも人々の生活を良くできる』ことを、数字と結果で示そうと考えました」
ラオネルがゆっくりと頷いた。
「ルシェムとベルナ、そして学院での成果が、それだと?」
「はい。まだ道半ばではありますが、石鹸と薬草薬により、病人の数は減り、労働力の損失も減っております。学院での消毒液の試験では、治癒魔法に頼らずとも、感染のリスクを大きく下げられることが確認されております」エリナは、事前に用意しておいた書類をゴードンから受け取り、前に差し出した。
「ここに、その数字をまとめたものがございます」
侍従がそれを受け取り、玉座の脇に控える魔法師団長の元へ運ぶ。老人が目を細めて書類を読み始めた。
クロヴェルも、その動きをじっと見ている。「数字は、嘘をつかぬな」
しばらくの沈黙ののち、魔法師団長がぽつりと言った。
「少なくとも、この書類に記された範囲では、効果は明白でございます、陛下」
ラオネルがエリナを見た。
「そなたは、魔法を否定しておるのか?」
その問いは、柔らかいが、鋭かった。
これを誤れば、一気に『異端者』のレッテルが貼られる。 エリナは、あらかじめ何度も頭の中で反復した言葉を、ゆっくりと口にした。「いいえ、陛下。私は魔法を否定しておりません」
「ほう」 「魔法は、素晴らしい力です。火を灯し、水を引き、傷を癒し、この国を守っております。それは疑いようのない事実です」玉座の間の空気が、わずかに緩んだ。
レインが横で微かに頷いたのが、視界の端に見えた。「しかし——」
エリナは続けた。
「魔法は、全てを救えるわけではありません」
再び、空気が引き締まる。
「魔法を使える人間は限られております。魔法に必要な資源や時間も無限ではありません。治癒魔法師が全ての病人を救うことはできませんし、魔法による輸送だけで国中の物資を賄うこともできません」
エリナは一人一人の顔を見るように、視線を少しずつ動かした。
「だからこそ、魔法の届かない場所を埋める手段が必要だと考えます。それが、石鹸であり、薬草薬であり、運送の仕組みであり、商会のネットワークです」
「つまり——」ラオネルがゆっくりと言葉を継いだ。
「魔法を『否定』するのではなく、『補う』と?」
「はい」 「魔法の特権を、貴族から奪おうとしているのではないと?」 「奪う必要はございません」エリナは即答した。
「魔法の力が必要な場面は、これからも必ずあります。国境の防衛、魔物の討伐、大規模な災害への対応——それらは魔法の得意とするところでしょう」
クロヴェルの視線が、わずかに動いた。
「ですが、日々の暮らしを支える小さな部分、例えば毎日の手洗いであったり、軽い怪我の手当てであったり、食料の保存であったり——そういったものは、魔法でなくとも対応可能です」
エリナは一呼吸置いた。
「魔法がなくてもできることを、魔法だけに任せるのは、かえって魔法の価値を下げると考えます」
玉座の間にいた何人かが、わずかに表情を変えた。
魔法の価値を下げる、ではなく、『下げることになる』。 魔法を尊重しつつ、依存を批判する。「魔法は、本来もっと『ここぞ』という場面に使われるべきです。そのためにも、日常の多くを『魔法以外の仕組み』で回せるようにする必要があります」
ラオネルが、深く頷いた。
「……そなたの父も、似たようなことを言っておった」
その声には、懐かしさと、少しの悔しさが滲んでいた。
そこで、横から別の声が入った。「陛下」
クロヴェル侯爵だった。
「お言葉ながら——」
その一言だけで、玉座の間の空気が変わった。
ラオネルが視線を向ける。「何だ、クロヴェル」
「この娘の言うことは、一理ございます」
クロヴェルは穏やかに言った。
「しかし、それはあくまで『一地方』『一商会』の話。国家の方針として取り入れるには、あまりに拙速かと存じます」
抑揚の少ない、滑らかな声。だが、その裏にある意図は明確だった。
「魔法は、この国の礎にございます。その権威を損なうような動きは、たとえ善意からのものであっても、慎重に検討されるべきでありましょう」
エリナの中に、父の失脚にまつわる数々の話と、フィオナの家の没落の記憶が一瞬で蘇った。
この声で、多くのものが切り捨てられてきた。「拙速かどうかは、結果を見て判断すべきではございませんか、クロヴェル侯爵」
自分が話すべきかどうか、一瞬だけ迷った。
だが——
フィオナが横で、ほんのわずかに顎を引いた。
行け。 その合図だと、エリナは受け取った。「ルシェムで、病気で倒れる子どもの数が三分の一以下に減りました」
エリナは、クロヴェルにではなく、国王に向かって言葉を継いだ。
「学院の医療棟では、消毒液の導入により術後感染が半分以下になりました。これらは、魔法なしで達成された数字です。一地方、一商会の話ではありますが、その影響は無視できない規模になりつつあります」
クロヴェルが静かにエリナを見る。
「このままの流れで行けば、魔法師たちの負担は軽くなり、彼らは『魔法でしかできないこと』に専念できるようになるでしょう。それは、魔法の価値を高めこそすれ、貶めるものではないと考えます」
ラオネルが、興味深そうにクロヴェルを見た。
「クロヴェル。そなたはどう思う?」
「……魔法師団の負担が減ること自体は、悪いことではございません」クロヴェルが静かに答える。
「ただし、それが『魔法に頼らない方が良い』という風潮につながるのであれば、問題です」
「風潮を変えるのは、難しいことだ」ラオネルが呟いた。
「はい。人々が『魔法がなくてもよい』と考え始めれば、いずれこの国の『魔法による抑止力』も弱まりましょう。それを危惧しております」
抑止力。
エリナは心の中で、その言葉を繰り返した。
「では、問います」
エリナは、あえて一歩前に出た。
「今、魔法を使えない人々は、どう抑止されているのでしょうか?」
玉座の間に、少しざわめきが走った。
「エリナ」フィオナが小声で制そうとしたが、エリナは止まらなかった。
「魔法は、強い力です。しかし、その魔法を使えない人々——平民や、魔素のない者たち——は、魔法によって守られながらも、魔法によって支配されてもおります」
ラオネルの目が鋭くなった。
「それを、悪いことだとは申しません。強い力が弱い者を守るのは、当然の役割ですから」
そこで、一拍置く。
「ですが、弱い者が『自分で自分を守る手段』を持つことも、また必要ではありませんか?」
フィオナが横で、息を呑んだ。
レインの目が、わずかに見開かれた。 クロヴェルの顔は変わらなかった。「石鹸で手を洗い、薬草で傷を手当てし、商会で仕事を得て、自分の生活を自分で支える。そういう『自分でできること』が増えれば、魔法は『すべて』を支配しなくても済むようになります」
エリナは、ラオネルをまっすぐに見た。
「それは、この国にとって『危険』でしょうか。それとも——『強さ』になるでしょうか?」
玉座の間に、沈黙が落ちた。
長い、長い沈黙だった。 誰も口を開かなかった。 空気が張り詰めているのに、どこか静謐でもあった。最初に口を開いたのは、国王ラオネルだった。
「……七つとは思えんな」
小さな苦笑が、口元に浮かんでいた。
「そなたの父も、似たようなことを申しておった。『国が強いとは、強い者が強いことではなく、弱い者が少ないことだ』とな」
エリナの胸が、熱くなった。
父が言った言葉。 直接聞いたことはない。でも、確かに彼が言いそうな言葉だ。「クロヴェル」
ラオネルが横を向いた。
「そなたの懸念もわかる。魔法の権威が揺らげば、外敵への抑止力が弱まる可能性はある」
「はっ」 「だが同時に——民の生活が安定し、病が減り、飢えが減ることもまた、国の強さに繋がる」 「……」 「どちらか一方だけを取る、という話ではなかろう」ラオネルがゆっくりと立ち上がった。
玉座の間にいる全員が、自然と姿勢を正した。「エリナ・アッシュフォード」
名を呼ばれ、エリナは膝をつきかけて——やめた。
ここは、目を逸らしてはいけない場だと、本能が告げていた。「そなたの試みを——『公式に』試してみる価値はあると、私は思っておる」
その言葉に、玉座の間の空気が激しく揺れた。
『公式に』という二文字の重さを、ここにいる誰もが理解している。
「魔法省と協議しつつ、いくつかの地方において、石鹸と薬草薬の普及を進める。その経済的・医療的効果を、王宮が直接監査する」
ラオネルは続ける。
「同時に——魔法師団にも、魔法以外の手段と連携する教育を施す。『魔法でしかできぬこと』と『魔法でなくともできること』を識別し、より効率的な運用を目指す」
それはつまり——
父が目指した『魔法に頼りきらない国』の、ごく小さな第一歩。
「クロヴェル」
ラオネルが、魔法省の副長官に視線を向けた。
「この件、魔法省としても協力せよ」
クロヴェルは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
だがすぐに、完璧な微笑を浮かべた。「……陛下の御意のままに。魔法省としても、国の益となる試みには協力を惜しみません」
その言葉が本心かどうかは、誰にもわからない。
だが、国王の前で「反対だ」とは言わなかった。 それだけで、今は十分だった。「エリナ・アッシュフォード」
ラオネルが再び、こちらを向いた。
「そなたに一つ、任を与える」
エリナは息を飲んだ。
「アッシュフォード商会を通じて、ルシェム、ベルナ、その周辺三町における石鹸と薬草薬の普及を、今後一年のうちにどこまで進められるか」
国王の声は、はっきりと響いた。
「その結果をもって、そなたの父の案——『魔法に頼りきらぬ国』の是非を、改めて議論する場を設けよう」
父の名が、ここで再び浮かび上がる。
「やれるか?」
問われている。
七歳の、自分に。 父が果たせなかった夢の「一次審査」を。 エリナは、迷わず答えた。「はい。必ずやり遂げてみせます」
その声に、震えはなかった。
フィオナが横で、小さく笑った。 レインの目が、わずかに柔らかくなった。 ゴードンが背後で、静かに頷いた。 クロヴェルの視線は、読めなかった。だが、それでいい。
これは、父の戦いの続きであり、同時に——私自身の戦いだ。
謁見は、それで一旦区切りとなった。 形式的な挨拶と礼が交わされ、一行は玉座の間を下がった。 扉が閉まる直前、エリナは振り返った。 玉座の上で、ラオネルが何かを考えるように目を閉じていた。その姿を、ほんの一瞬だけ見届けて——扉が閉じた。外の廊下に出た瞬間、フィオナが大きく息を吐いた。
「……生きた心地がしなかった」
「あなたが?」エリナが少し驚く。
「ええ。あなたがどこまで言うのか、ヒヤヒヤしてたもの」
「言いすぎた?」 「ギリギリ。でも、そのギリギリが、あの人には刺さったみたいね」レインが静かに言った。
「陛下は、ずっと誰かを探していたのかもしれない」
「誰か?」 「魔法に頼らぬ言葉で、魔法の外側からこの国を語れる人間を」レインがエリナを見た。
「少なくとも、今日はそれが見えた」
アルバが近づいてきた。
「お疲れさまでした、エリナ殿」
彼の目は、どこか楽しそうだった。
「父上は、きっと今、久しぶりに『わくわくしている』と思いますよ」
「わくわく?」 「ええ。国王というのは、なかなか新しいものに出会えないものですから」アルバが笑った。
「今日は、久々に『未知』が現れた」
エリナはどう返していいかわからず、ただ小さく会釈した。
未知。
私は、未知か。父が見せたかった『未知の国』の、最初の小さなピースであるなら——それは、悪くない。
王宮を出て、城下へ戻る道。
エリナは、ふと空を見上げた。 青空に、白い雲が流れている。 大きなものの中に、自分が小さく立っている。それが、今の実感だった。
でも、小さいからこそ、動きやすい場所もある。
フィオナが隣で言った。「一年で、どこまでやれるかね」
「やれるだけ、やる」 「そういう答え方しかしないのよね、あんたは」 「それ以外に、意味のある答えはない」レインがぽつりと言った。
「一年あれば、学院側も動かせる」
「どう動かすの?」 「魔法師たちに、『魔法以外の手段を敵ではなく味方と見る』ように仕向ける」 「そんなことできるの?」 「やる」レインがあっさりと言った。
「お前が一年で結果を出すなら、俺は一年で考え方を変える」
フィオナが呆れたように笑った。
「本当に、変なコンビね」
「よく言われる」エリナが返した。
「誰に?」
「マリオに」三人の声が、王都の雑踏に紛れて消えていく。
だが、その一歩一歩が、この国のどこかに小さな波紋を広げていることを、まだこの時のエリナは知らなかった。ただ——
父が夢見た『魔法に頼りきらない国』へのカウントダウンが、今、玉座の間で静かに始まったことだけは、確かだった。
レインからの返事は、手紙ではなく本人が持ってきた。 手紙を出してから十日後の朝、エリナが作業場で石鹸の型を確認していると、マリオが戸口から顔を出した。 「来てるぞ」「誰が?」「誰がって、一人しかいないだろそういう顔の時」「どういう顔」「なんか、急に背筋が伸びる顔」 エリナは手を止めた。 「何を言っているの」「俺もよくわからん」 マリオがにやにやしながら引っ込んだ。 エリナは道具を置いて、石灰の粉を手ぬぐいで拭いながら外に出た。 長屋の前に、レインが立っていた。 旅装束。革鞄。よく見ると、鞄が前より少し大きくなっている。中身が増えたのだろう。顔は変わらない。無表情で、でもどこか目だけが少し鋭い。 「来た」「来た」 お互いに同じ言葉を言った。 少し間があって、エリナが続けた。 「手紙じゃなくて、本人が来たの」「その方が早い、と判断した」「学院の用件も兼ねて?」「そうだ。ルシェム周辺の衛生改善の実地調査、という名目で外出許可が下りた」「名目、と言った」「名目だけが理由ではないからだ」 エリナは少しだけ、顔の筋肉が緩むのを感じた。 表情には出さなかった。出すつもりもなかった。 でも、来てくれたのは、素直に良かった。 午前中は、エリナがレインを作業場に案内した。 改造を終えたばかりの三部屋を、順番に見せた。石鹸の生産部屋、薬草の処理部屋、消毒液の蒸留部屋。ルナが蒸留の作業をしていて、レインが近づくと猫が一匹足元に寄ってきた。 「動物に好かれるのか」レインがルナに言った。「……なつかれやすい」ルナが短く答えた。 「魔法の影響か?」「わからない。でも、昔から」 レインが、棚に並んだ薬草の瓶をひとつ手に取った。ラベ
フィオナからの最初の手紙が届いたのは、三人の現場責任者を決めてから五日後のことだった。 朝の市場から戻ったマリオが、馬革の封筒を持って駆け込んできた。 「王都から来てる。フィオナさんからだ」 エリナは薬草の仕分け作業をしていた手を止め、封筒を受け取った。 封蝋には、小さなクロスベルの家紋の代わりに、フィオナが即興で作ったらしい印——葉っぱの形をした押し型——が押してあった。 開けると、二枚の紙が出てきた。 一枚目は、ルシェムへの報告。簡潔な文体で、王都の空気の変化が箇条書きにまとめられていた。 二枚目は、全然違う文体だった。 エリナへ 王都は、思っていたより動きが早い。 あなたが国王陛下に謁見した話は、翌日には宮廷の半分に広まっていた。反応は大きく二つ。「面白い」か「危険だ」か。中間がほとんどいない。 クロヴェル派の動きを追っている。具体的な妨害はまだ出ていないが、水面下で根回しをしている気配がある。特に、商人ギルドの幹部数名と、魔法省の中堅どころが接触を繰り返しているのが気になる。 一方で、実務派の魔法師たちの間では「アッシュフォード商会の成果を無視するのは損だ」という声が少しずつ出始めている。レインの師匠が動いてくれているらしい。 あと、ダリウスが最近、宮廷でやや孤立しているという噂がある。父親との間で何かあったのかもしれない。確認中。 それと——あなたが「事務室が少し広く感じる」と書いてくれたの、正直言うと少し嬉しかった。毒舌参謀として言わせてもらうと、あなたはもう少し素直に寂しいと言える人間になった方がいいと思う。次の手紙には、数字だけじゃなくて、もっと変なことを書いてちょうだい。 ――フィオナ・クロスベル―― 追伸:レインへの手紙に『今日も雨が降った』と書いたでしょう。彼、それについて何か言ってた? エリナは手紙を読み終えて
王都から戻って一週間が経った。 ルシェムの作業場の改造は、ハンスとマリオを中心に順調に進んでいた。長屋の隣の空き家は、思っていたより造りがしっかりしていて、改造に必要な手間も予算も予定より少なくて済んだ。 石鹸の生産ラインを置く部屋、薬草の乾燥と仕分けをする部屋、そして消毒液の蒸留器を据え付ける部屋。三つの作業区画を、薄い板で仕切る形にした。換気のために高い位置に小窓を増設し、水回りも改修した。 完成までにあと十日ほど。 その十日の間に、エリナはもう一つ大事なことを進めなければならなかった。 現場責任者の候補を、決める。「候補は、こんな感じだ」 マリオが長屋の事務室で、紙を一枚広げた。 炭で大きく書かれた名前が、三つ。 マグダ・トーラン(ヴァロウ町) ジルカ・ベッセル(キーシュ町) オーリック・モア(トレネ町)「全員、ルシェムで石鹸を使ってくれてる人と繋がりがあって、向こうの町でもそれなりに顔が広い。字も読めるし、計算もまあ何とかなる」「人柄は?」「マグダは肝っ玉母ちゃん。子持ちで、ヴァロウの女衆の中心にいる」 マリオが指で名前を叩く。「ジルカは、男だけど物腰が柔らかい。キーシュの宿屋の次男で、家業と別に何かやりたがってる」「もう一人は?」「オーリックは、トレネで小さい雑貨屋を一人でやってる老人だ。年は六十過ぎ。ちょっと頑固」 エリナは三つの名前を、じっと見た。「三人とも、人物像が違うね」「だろ。お前が言ってた『町の事情によって合う合わないがある』ってやつだろ? だから幅を持たせて候補を出した」「いい判断」「俺の判断っていうか、ゴードンさんに意見もらった」「ちゃんと相談したのが、いい判断」「言い方」 マリオが頬を膨らませて、エリナは小さく笑った。「順番は?」「近い順だと、ヴァロウ、トレネ、キーシュ。馬車で順に回れば、三日でひと回りできる」「じゃあ、明日出発
ルシェムへ戻る道は、来た時とは少し違って見えた。 同じ街道、同じ宿場町、同じ景色。 なのに、馬車の窓から見える木々の色も、すれ違う旅人の顔も、どこか違って感じる。 変わったのは景色じゃなくて、自分の方なんだろうな。 エリナは、膝の上で軽く手を組みながら、そう思った。 王宮で何を語ったか。国王とどんな約束をしたか。フィオナを王都に残してきたこと。レインと交わした、ささやかな約束。 その一つ一つが、自分の中の重心を少しずつ動かしている気がした。「眠くないか?」 馬車の中で、向かいに座るゴードンが声をかけた。 今、馬車にいるのはエリナとゴードンの二人だ。レインは王都の郊外で別れ、学院へ戻った。フィオナは王都に残っている。「眠くはない」「考えごとですか」「整理してる」「無理はなさらず」 ゴードンは短く言って、また黙った。 この男の沈黙は心地よい。必要な言葉だけを置いて、あとはそっとしておいてくれる。 エリナは膝の上の革鞄を軽く撫でた。 中には、王宮からの正式な書状の写しと、フィオナとレインに書いた最初の手紙の下書きが入っている。 ルシェムに着いたら、すぐに動かないと。 頭の中で、もう次の段取りが回り始めていた。 ルシェムの町が見えてきたのは、二日目の夕方だった。 石壁とも呼べないような低い土塀。古びた門。市場の端に立つ木製の看板。王都の壮大な城壁を見た直後だと、すべてが妙に小さく、けれど不思議と懐かしく感じられる。 ハンスの息子のマリオが、町の入り口で待っていた。 馬車を見つけた瞬間、彼は手を大きく振った。「エリナーっ! ゴードンさんっ!」 声が、思いきり大きかった。 馬車が止まるのを待たず、マリオは横を走ってついてきた。「ただいま」 エリナが窓から声をかけると、マリオがニッと笑った。「おかえり。なんかすごいことになったって、本当か?」「誰から聞いたの」
王宮からの帰り道、足が地に着いていないような感覚が、しばらく続いた。 国王との謁見。父の名が再び玉座の前で語られたこと。一年という期限付きの「任」。魔法省、クロヴェル、学院、王宮——それらが一気に現実の輪郭を持った。 エリナは、王都の石畳を踏みしめながら、自分の足音だけを数えていた。 一、二、三、四——。 数えることで、頭の中のざわめきを整理しようとしていた。 王都での滞在は三日だけ、と決まっていた。 一日は謁見。残り二日は、情報収集と今後の段取りに使う。 王宮を出た一行は、まず王都中心部の小さな宿に入った。アルバの配慮で、比較的静かな場所が選ばれている。広くはないが、四人で一部屋を使える程度の余裕はあった。「まずは整理ね」 宿の一室に入るなり、フィオナがテーブルに紙と炭を広げた。「一年でやることを、全部出す。優先順位をつけて、誰が何をやるか決める」「了解」 エリナも椅子に座り、紙の前に身を乗り出した。 レインは壁際に立って腕を組み、ゴードンは窓のそばで外を眺めながら耳を傾ける。「一年の任務、ざっくり言うと三つ」 フィオナが指を立てる。「一つ。ルシェムとベルナ、その周辺三町での石鹸と薬草薬の普及拡大。二つ。王宮に提出するための『数字と報告』の仕組みづくり。三つ。クロヴェルの妨害への備え」「それぞれ、細かく分解する」 エリナが引き継いだ。「一つ目は、単純に量を増やすだけじゃ足りない。使い方の教育、配布ルートの整備、価格の調整、在庫管理……」「二つ目は、今までの帳簿を『王宮向けの言葉』に翻訳する作業ね」 フィオナが言う。「単なる売上表じゃなく、『どれだけ人が助かったか』を数字で見せられる形にしないと」「三つ目が、一番読みにくい」 エリナは少し眉をひそめた。 「クロヴェルがいつ、どの程度まで動いてくるか、見通しが立ちにくいから」
玉座の間は、思っていたより静かだった。 もっと人がいて、ざわめきがあって、豪華絢爛な音楽が流れているのかと思っていた。だが現実は違った。高い天井に反響するのは、歩く音と衣擦れの気配だけ。 赤い絨毯が、まっすぐ玉座へと伸びている。 左右には、重厚な柱が等間隔に並び、その間に王家と歴代の英雄たちのタペストリーが掛けられている。光は高窓から差し込み、床の大理石をほのかに照らしていた。 そして、その最奥。 ひとつだけ高く据えられた椅子。 国王の椅子。 そこに座る人物を、エリナは見た。 ヴァルデリア国王——ラオネル・ヴァルデリア三世。 四十代半ばほどだろうか。鋭さよりも、どこか疲れを帯びた穏やかな目をしている。だが、穏やかさが弱さでないことは、向き合った瞬間にわかった。 人をよく見ている目だ。 玉座の右側には、王宮魔法師団の長と思しき老人が立ち、左側には数人の高官たちが控えている。その中に、見慣れた紋章をつけた男の姿があった。 クロヴェル侯爵。 エリナは、その視線を一瞬だけ感じた。冷たい、というより無色の目。対象を評価し、分類し、その上で切り捨てる目。 見ている。 でも、今はそちらを見返さない。 エリナは絨毯の上を歩いた。両脇をフィオナとレインが固め、少し後ろにゴードンが続く。途中でアルバが横に退き、一行を見守る位置に移動した。 決められた位置まで進み、エリナは跪いた。「アッシュフォード商会、実務責任者——エリナ・アッシュフォードにございます。陛下のお召しにより、参上いたしました」 声は震えなかった。 震えさせないように、喉と舌の動きを意識した。 沈黙が、一拍。 そして、国王の声が降ってきた。「顔を上げなさい、エリナ・アッシュフォード」 落ち着いた、低い声だった。 エリナはゆっくりと顔を上げた。 国王ラオネルの目が、真っ直ぐこちらを見ていた







